
特攻隊の生き残り有名人36選・衝撃ランキング【2025最新版】
太平洋戦争末期、捨て身の特攻作戦で多くの若者が命を落としました。しかし運よく生き残った特別攻撃隊(特攻隊)もいます。今回はそんな特攻隊で生き残った有名人を衝撃順にランキング形式で紹介します。
4位:安藤昇
3位:山本卓眞

旧満州で特攻隊の一員として、8月15日に出撃が予定されていた
生年月日: 1925年9月11日
出身地:熊本県
死亡日: 2012年1月17日
富士通の元社長で、富士通がコンピュータ事業を開始するために設置したプロジェクトメンバーに参画。長年にわたり、コンピュータ事業成長のけん引役を担った山本氏は、1943年には陸軍航空士官学校に進み、1945年3月に同校を卒業。赴任先の旧満州で特攻隊の一員として、8月15日に出撃が予定されていたが、その日に終戦を迎え帰国した。「生涯忘れられない言葉になった」というのが当時の部隊長からの訓示。「これまでは死ぬことを求めてきたが、これからは地をはい、草をかみ、犬になっても、こじきになっても生き抜け。生きて祖国の再建に力を尽くせ」だそうです。
2位:田英夫
1位:竹下登

特操4期生25名の中の一人
出生地: 島根県 雲南市 掛合町掛合
生年月日: 1924年2月26日
死亡日: 2000年6月19日
自由民主党の最大派閥であった経世会の創設者。 大蔵大臣を4期務め、金融引締め、円高推進、対米輸出削減、対米輸入増加、対米投資を進める歴史的な合意であるプラザ合意を結び、総理大臣就任後は消費税を導入。 日本の内需縮小へ舵を切った。 他にふるさと創生1億円なども行いました。そんな竹下登は、熊谷飛行学校軽井沢分教所野辺山分遣隊、特操4期生25名の中の一人でした。昭和十九年秋から終戦まで、訓練を受けた若いパイロットたちが、九州の鹿屋・知覧などの前線基地へ配属され、特攻隊として次々に帰らざる人となって行ったそうです。
まとめ
ここまで特攻隊の生き残り有名人・衝撃ランキングを紹介してきましたがいかがでしたでしょうか。1位は、竹下登でした。特攻隊として、若くして命を落とした彼らの思いを忘れてはいけません。
生年月日: 1926年5月24日
出生地: 東京都
死亡日: 2015年12月16日
俳優で作家、伝説的暴力団「安藤組」の組長として有名な安藤昇さんは潜水服を着た特攻隊員が海底に隠れ、敵の船に機雷を接触させて自爆攻撃を行うという特攻兵器人間機雷「伏龍」の部隊に志願して危険な訓練を受けていたそうです。しかし入隊2ヶ月後に終戦を迎え、生きて帰ってくることができたそうです。