
特攻隊の生き残り有名人36選・衝撃ランキング【2025最新版】
太平洋戦争末期、捨て身の特攻作戦で多くの若者が命を落としました。しかし運よく生き残った特別攻撃隊(特攻隊)もいます。今回はそんな特攻隊で生き残った有名人を衝撃順にランキング形式で紹介します。
特攻隊の生き残り有名人36選・衝撃ランキングTOP15-11
15位:三島敏夫
14位:佐野浅夫

本土決戦に備える特攻隊に応召し、劇団を離れ、死を待つ日々を送った
出生地: 神奈川県 横浜市 保土ケ谷区
生年月日: 1925年8月13日
死亡日: 2022年6月28日
1943年、劇団苦楽座に入団。同年には、舞台『オルレアンの処女』で初主演。93年~2000年までドラマ『水戸黄門』で3代目水戸光圀役として活躍した。NHKラジオ『お話でてこい』では、童話の朗読者役として4000回を超える放送をこなしている。佐野は本土決戦に備える特攻隊に応召し、劇団を離れ、死を待つ日々を送ったそうです。劇団員9人は8月6日の広島市への原子爆弾投下により後に全員が死亡し、櫻隊はこれにより壊滅。佐野は軍隊を抜け出して、日本の敗戦後の8月20日頃、東京大学医学部附属病院に仲を見舞っています。
13位:結束信二
12位:千宗室

「思い出すのも嫌なほど」過酷な訓練に明け暮れた
生年月日: 1923年4月19日
出生地: 京都府 京都市
昭和39年に裏千家第15代家元となる。戦争経験者として、お茶を通して平和を訴える活動を始める。ハワイ大学を始め、世界各国の大学で茶道を講じ、また茶道の学校も設立している。15大学より名誉学位および博士号を授与。2002年に長男に家元を譲座し、千 玄室大宗匠を名乗っています。千玄室さんは、同志社大学2年生の時、学徒出陣で海軍予備学生となった。入隊試験に合格し、訓練が始まると、本来なら1年半かける訓練を10か月で詰め込まれた。毎日毎日、「貴様らは死にに来たんだ」と繰り返し上官から言われる。そんな「思い出すのも嫌なほど」過酷な訓練に明け暮れたそうです。
11位:蔦文也

家の長男だという理由で出撃が後回しにされた
生年月日: 1923年8月28日
出身地:徳島県徳島市
死亡日: 2001年4月28日
徳島・池田高校の野球部を率いて、甲子園で春夏合わせて3度の優勝を果たした「攻めダルマ」こと蔦文也。従来の守備を重視した高校野球のスタイルを覆し、「やまびこ打線」と呼ばれる打撃中心のパワー野球を推し進めて、他のチームを圧倒しました。そんな蔦氏は、徳島商を卒業後、投手として同志社大へ進学。しかし、第二次世界大戦で学徒出陣し、特攻隊に配属された。出撃することはなく、帰還したそうです。若い命を散らすためだけにたつ同僚を、何度も見送ったそうですが、蔦氏は家の長男だという理由で出撃が後回しにされたそうです。
生年月日: 1926年11月10日
出身地:サイパン島
死亡日: 2014年8月17日
日本のハワイアン歌手、ムード歌謡歌手として人気を博した三島敏夫氏は、1943年、予科練に入隊。1945年、台湾高雄市近くの基地で水上特攻兵器震洋の特別攻撃隊の一員に選ばれるが、出撃前に敗戦となったため一命を取り留めました。