
暴力団・ヤクザの抗争事件30選!凶悪犯人ランキング【2025最新版】
暴力団やヤクザと呼ばれる反社会的勢力の存在が社会問題化していますが、過去のどのような抗争事件があったかご存知でしょうか。今回はそんな暴力団・ヤクザの抗争事件をランキング形式で紹介します。
暴力団・ヤクザの抗争事件ランキングTOP30-26
30位:津別事件

乱闘は約30分間続いた
3人の朝鮮人が遊戯場に現れ、金を払わずに遊んだ上、露店をひっくり返す暴挙を働いた。この場に居合わせた的屋らは3人を袋叩きにした。この3人は直ちに在日本朝鮮人連盟(朝連)北見支部に連絡を取り救援を求めた。北見支部では早速約20人の朝鮮人を集め、夕方に出発した。途中の美幌町では竹槍や棍棒などの凶器も積み込み、さらに人を集めて最終的には約50人に膨れ上がった。朝鮮人側から打ち上げ花火のようなものが的屋側に落下した。これをきっかけに両者は激突、町民も的屋側に加勢して投石した。乱闘は約30分間続いた。この衝突で、朝鮮人側に死者2人・重軽傷者19人、的屋側に軽傷者6人を出しました。
29位:ブルースカイ事件

報復するために150人近い組員を送り込む
小野透後援会発足式の後、田岡一雄、美空ひばりらはブルースカイで酒を飲んだ。美空ひばりの姿を見つけ、「一曲歌わせろ」とマネージャーに要求する客がいた。鶴政組(現・稲川会)の幹部、佐藤義雄だった。マネージャーからそれを聞いた田岡は、「おしのびで来てるんだから、勘弁してくれ」と断った。それを聞いた佐藤は収まらず、「ぐずぐず言ってないで、ひばりに歌わせろ!」とマネージャーに食ってかかる。田岡と若い衆6人は、「表に出んかい!」と言って、佐藤を駐車場に連れ出した。拳銃を突きつけたところで、佐藤の胸にあるバッジに気づいた。稲川組の創始者である稲川角二を配下においていた、博徒の鶴岡政次郎と田岡は兄弟の盃を交わしていた。
田岡は手を引いたのだが、佐藤のほうが収まらず、横浜中で田岡を捜し回り、横浜市磯子区の高台の高級住宅街にある、美空ひばりの家にも押しかけた。田岡は神戸に帰っていたが、佐藤の行状を聞きはらわたが煮えくりかえった。報復するために150人近い組員を送り込んだ。情報を事前に察知した神奈川県警が、非常警戒態勢を取り、職務質問や検問で凶器を発見したので、事件は未然に防がれた。
28位:紫川事件
27位:夜桜銀次事件
26位:住吉連合会と寄居一家の抗争事件
暴力団・ヤクザの抗争事件ランキングTOP25-21
25位:第1次沖縄抗争
24位:岐阜抗争

概要
岐阜抗争は、1962年12月14日から同年末までに起った三代目山口組と鶴政会との暴力団抗争事件です。昭和37年9月16日午後9時すぎ、稲川組と芳浜会の抗争事件が勃発。同年10月中旬、芳浜会菊田派の菊田吉彦と瀬古安会・鈴木康雄組長が、鶴政会幹部の林喜一郎に舎弟になりたい旨を申し入れてきた。林は菊田と鈴木の申し入れを了承した。その後、鶴政会岐阜支部長・清家国光が、菊田と鈴木に対し「林の若衆になるならばよい。しかし舎弟になるのは反対である」と伝えた。同年11月、実業家に転身していた中島巌が、九代目池田一家総裁に就任。中島は九代目池田一家の跡目相続にあたり、菊田と鈴木への協力を約束した。同じ頃、三代目山口組若頭の地道行雄が菊田と鈴木を舎弟とした。そして月末、林は横浜市南区蒔田町の自宅で舎弟・網口和夫から、菊田と鈴木とが地道の舎弟になったことを知らされた。林は若衆に菊田と鈴木の殺害を指示。芳浜会菊田一家幹部の足立哲雄が菊田一家と池田一家の結束を図るため中島巌の傘下に入った。その後林の若衆らは菊田と鈴木の所在を掴めなかったため、標的を足立に切り替えた。
一命をとりとめた足立
足立は車で大垣競輪場へ向かった。林の若衆・林康雄がセドリックを運転し、林の若衆・下田耕市郎と江越正治を同乗させ、足立の車を追った。国道21号の岐阜県安八郡安八町東結で、林は運転するセドリックを足立の車に覆いかぶさるように横付けし、足立の車を停車させた。下田と江越はセドリックから降りた。下田が足立の車に向かってコルト45で2発の銃弾を撃ち込んだ。下田の撃ち込んだ2発の銃弾のうち1発が足立の左腕に命中。足立は車から飛び出して逃走した。下田と江越は足立を追いながら拳銃を乱射したが、足立には命中しなかった。その後、下田と江越は林のセドリックに引き返した。林、下田、江越は、逃走した。足立は車で大垣市の外科病院に搬送された。重体だったが一命を取り留めました。名古屋市の料亭にて、高橋三治の仲介によって、菊田吉彦・鈴木康雄と林喜一郎とで手打ち。林は岐阜県に林一家を置くことを承認させました。
津別事件とは、1947年(昭和22年)9月10日に北海道網走郡津別町で発生した抗争事件です。道内各所で夏祭りが開かれたが、戦後、在日朝鮮人が道内の露店を荒らすようになり、的屋側は「このままでは一般人が寄り付かなくなる」という危機感から、道内最後の夏祭りを開く津別神社で朝鮮人に反撃を加えることになった。道内だけでなく本州の的屋も呼び寄せて、津別神社の祭りに備えた。