
国葬された日本の有名人28選・衝撃ランキング【2025最新版】
国家に功労のあった人の死に際し、国家の儀式として、国費をもって行われる国葬ですが、これまでどのような人たちの国葬が行われてきたのでしょうか。今回はそんな日本の国葬を行った有名人を衝撃順にランキング形式で紹介します。
13位:大久保利通

事実上の国葬
明治維新の指導者。 島津久光のもとで公武合体運動を推進。 やがて討幕へと転じ、薩長連合を成立させる一方、岩倉具視らと結んで慶応3(1867)年12月、王政復古のクーデターを敢行。 版籍奉還や廃藩置県を推進し、新政府の基礎を固めました。明治11年(1878年)5月14日、馬車で皇居へ向かっていた。大久保はその時、亡き西郷隆盛の生前の頃の手紙を読んでいたとされている。その途中、紀尾井坂付近の清水谷(東京都千代田区紀尾井町)にて6人の不平士族に殺害されます。大久保氏の葬儀は事実上の「国葬」の形をとりますが、当時は反政府勢力が国内に多くおり、盤石な政府ではなかった頃。天皇の名の下に、国家を挙げて大久保という人物に対し哀悼の意を示すことで、反対派の動きを封じ込めるという政治的な目的がありました。
12位:岩倉具視
11位:大山巌

かつての敵国の軍人から弔詞
薩摩藩出身の明治時代の軍人陸軍大将・元帥・元老で、戊辰 (ぼしん) 戦争・西南戦争で活躍しました。 また、薩摩派を率いて長州の山県有朋とともに陸軍の創設に尽力し、陸相・参謀総長などを歴任しました。大正5年(1916年)、大正天皇に供奉し、福岡県で行われた陸軍特別大演習を参観した帰途に、胃病から倒れ、胆嚢炎を併発。療養中の12月10日に内大臣在任のまま薨去。12月17日の国葬では、参列する駐日ロシア大使とは別にロシア大使館付武官のヤホントフ少将が直に大山家を訪れ、「全ロシア陸軍を代表して」弔詞を述べ、ひときわ目立つ花輪を自ら霊前に供えたそうです。かつての敵国の軍人からのこのような丁重な弔意を受けたのは、この大山と後の東郷平八郎の2人だけでした。
日本の国葬 有名人衝撃ランキングTOP10-6
10位:西園寺公望

国葬には数万人が参加
戊辰戦争において官軍の山陰道鎮撫総督を務め、フランス留学後には伊藤博文の腹心となった人物で、明治36年(1903年)には伊藤の後を継いで立憲政友会総裁に就任し、明治39年(1906年)内閣総理大臣に任じられ、第1次西園寺内閣、第2次西園寺内閣を組閣します。その後は首相選定に参画するようになり、大正5年(1916年)に正式な元老となり、大正13年(1924年)に松方正義が死去した後は、「最後の元老」として大正天皇、昭和天皇を輔弼、実質的な首相選定者として政界に大きな影響を与えました。また、教育にも尽力し、自らが創設した私塾立命館は現在の立命館大学の礎となりました。1940年11月24日に死去すると、同年12月5日に国葬が行われ、数万人が参加し、同日に公開された坐漁荘にも8000人の参観者が訪れたそうです。
9位:松方正義
8位:貞愛親王
7位:明治天皇

主要新聞は天皇崩御のために9月17日まで全ページを黒枠で囲む
旧江戸城を皇居として統治権を総轄し、軍人勅諭・大日本帝国憲法・教育勅語などを制定し、神聖不可侵の天皇の権威を確立しました。また資本主義の発達をはかり、日清・日露両戦争に勝ち、条約改正・韓国併合などを行って強力な明治国家を確立しました。1912年(明治45年)7月30日に崩御すると、9月13日午後8時、東京・青山の大日本帝国陸軍練兵場(現在の神宮外苑)において明治天皇の大喪の礼が執り行われました。明治天皇の柩は遺言に従い御霊柩列車に乗せられ、東海道本線等を経由して伏見桃山陵に移動、9月14日に埋葬されました。主要新聞は天皇崩御のために9月17日まで全ページを黒枠で囲みました。
幕末の薩摩藩における事実上の最高権力者で、公武合体運動を推進した人物です。明治政府の内閣顧問、左大臣。重富島津家当主、のち玉里島津家初代当主です。明治20年(1887年)12月6日に薩摩国鹿児島郡下伊敷村(現在の鹿児島市玉里町)の玉里邸で死去すると、国葬をもって送られたが、東京ではなく鹿児島での国葬となったため、葬儀のために道路が整備され、熊本鎮台から儀仗兵1大隊が派遣されました。