
日本の殺人事件の死者数ランキングTOP50【2025最新版】
治安がいいと言われる日本においても歴史に残るような大量殺人事件は多数発生しています。そこで今回は日本の殺人事件を死者数順にランキング形式で紹介します。
日本の殺人事件 死者数ランキングTOP25-1

犯行の動機には複雑な家族関係が背景に
岩槻一家7人殺害事件は、自宅を放火し家族を焼死させた殺人事件で、犯行の動機には複雑な家族関係が背景にあったとされています。1959年(昭和34年)7月22日午前1時半頃、埼玉県岩槻市(現在のさいたま市岩槻区)にある農家から出火し全焼。焼跡からこの家の主人(当時63歳)とその義父(同75歳)、主人の息子の嫁(同28歳)と4歳と1歳と2ヶ月の男児、そして主人の姪(同10歳)の一家7人の焼死体が発見されました。当初から警察は不審火とみていましたが、この家の息子A(同24歳)の姿がなく、Aは前日従兄弟宅に家中を焼き払うというメモを残したり、妻の実家に投石をしたうえ、ガソリンを購入するなどといった不審な行動をしていたため警察はAを全国に指名手配。しかしAは午後8時ごろになって越谷市の小料理屋で飲食をしたあと、突如外に裸足で走り出して車に飛び込み全治三週間の怪我をする自殺未遂を引き起こしました。

東アジア反日武装戦線「狼」による無差別爆弾テロ事件
三菱重工爆破事件は、1974年(昭和49年)8月30日に東京都千代田区丸の内で発生した、東アジア反日武装戦線「狼」による無差別爆弾テロ事件で、連続企業爆破事件の一つです。東アジア反日武装戦線の呼称はダイヤモンド作戦で、虹作戦で使用する予定であった爆弾を流用しています。
東アジア反日武装戦線は第二次世界大戦以前の日本を「完全な悪」と捉えており、太平洋戦争を「侵略戦争」として憎んでいた。そのような思想を元に、戦前・戦中に日本の重工業を支え、戦後も日本を代表する重工メーカーであり、防衛産業を手掛け、またアジア・ヨーロッパ・北アメリカなど、世界進出を行っていた三菱重工業は、犯行時点においても「帝国主義(を支援する企業)」であると断定。グループの政治思想に基づき「経済的にアジアを侵略している」として無差別爆破テロのターゲットとするに至りました。

国民に大きな衝撃を与えた凶悪犯
勝田清孝事件は、1972年(昭和47年)から1983年(昭和58年)の約10年間に勝田 清孝が東海地方・近畿地方で8人を相次いで殺害した連続殺人事件です。10年間で約300件に及ぶ窃盗・強盗殺人を起こし、1994年に死刑判決が確定し、2000年に執行されました。
勝田清孝は1972年から1983年まで約10年間にわたり凶悪犯罪を繰り返し、犯行方法も次第にエスカレートしていった。警察官を交通事故で呼び出し、駆けつけた警察官を車で轢き、銃を盗むという過激な犯行にもおよび、1982年10月31日から翌日にかけてその拳銃で、高速道路のサービスエリアから強引にヒッチハイクして乗り込んだ車の運転手を射殺するなど、国民に大きな衝撃を与えました。
熊野一族7人殺害事件とは、1980年(昭和55年)1月31日夕方に三重県熊野市二木島町の集落で7人が殺害された大量殺人事件で、農業を営んでいた男(事件当時44歳)が自宅に集まっていた親族10人を猟銃(散弾銃)・斧で次々と襲撃して7人を惨殺・3人に重軽傷を負わせ、自宅に籠城した末に凶器の猟銃で自殺しました。「のどかで平和な漁村」で発生した未曽有の大惨事は地元住民に大きな衝撃を与え、『中日新聞』(中日新聞社)は本事件を「漁業・ミカン栽培で知られる静かな町が『八つ墓村』(横溝正史)を思わせる血塗られた惨劇の舞台となった」と報道しました。