
日本史で有名な事件ランキングTOP20【2025最新版】
今回は、日本史で有名な事件ランキングを紹介します。日本の過去の歴史を振り返ると、生死を賭けた内乱や戦争など数々の事件が繰り返されてきたことがわかります。
9位:大政奉還
8位:大化の改新
7位:赤穂浪士討入り

赤穂四十七士
赤穂浪士討入り(忠臣蔵)とは、江戸時代中期の元禄14年3月14日(1701年4月21日)、江戸城殿中松之大廊下で赤穂藩藩主・浅野長矩(内匠頭)が高家肝煎・吉良義央(上野介)に刃傷に及んだことに端を発します。この一件で加害者とされた浅野は即日切腹となり、被害者とされた吉良はお咎めなしとなりました。その結果を不服とする赤穂藩国家老・大石良雄(内蔵助)をはじめとする赤穂浪士(赤穂藩の旧藩士)47名、いわゆる「赤穂四十七士」は、紆余曲折のすえ元禄15年12月14日(1703年1月30日)未明に本所・吉良邸への討ち入りに及び、見事その首級をあげます。そしてその後の浪士たちの切腹までの一連の事件を総称して、今日の史家は「赤穂事件」と呼んでいます。
6位:黒船来航
日本史で有名な事件ランキングTOP5-1
5位:日露戦争
4位:本能寺の変
3位:明治維新
2位:関ヶ原の戦い

関ケ原の戦いのきっかけ
1598年(慶長3)豊臣(とよとみ)秀吉が死ぬと、豊臣政権はたちまち内部分裂の兆しをみせ始めた。秀吉は生前から、家康の実力が諸大名のそれをはるかに超えているのを憂えて、前田利家(としいえ)を重用して家康に対抗させようとしたり、五大老・五奉行(ぶぎょう)の制度を設けて、自分の死後における家康の独走を阻もうと考えていた。しかし利家も秀吉の後を追うようにその翌年に死んだので、天下の声望はいよいよ家康に集まり、その独走体制はさらに強まり、専横ぶりもまたひどくなってきた。五奉行の一人であり、かねて家康に強い反感を抱いていた石田三成は、打倒家康を図ってひそかに策を練り、ついには挙兵することになります。

徳川政権の誕生
かねて内応を約しながらも、去就を明らかにせず形勢を観望していた小早川秀秋が、家康からの厳しい催促にようやく寝返りを決し、にわかに大谷隊の側背に攻撃をしかけたのを境に、西軍はみるみる総崩れとなり、午後4時ごろ東軍の地すべり的大勝が決定した。三成は伊吹山(いぶきやま)に逃れたが潜伏中を捕らえられ、後日、小西行長、安国寺恵瓊らとともに京都で斬(き)られたほか、西軍の主将として大坂城にあった毛利輝元は安芸(あき)(広島県)など9か国112万石から周防(すおう)、長門(ながと)(山口県)2か国36万石に大減封されるなど、西軍に加わった諸大名は取潰(とりつぶ)し、減封などいずれも厳しい処分を受けた。それに伴い豊臣秀頼(ひでより)も摂津、河内(かわち)、和泉(いずみ)(兵庫県、大阪府)で65万石の一大名に成り下がり、徳川氏の覇権が事実上確立します。
「大政」とは天下の政 の意で、第15代将軍徳川慶喜 (よしのぶ)が1867年(慶応3)10月14日、徳川氏265年間の政権を朝廷に奉還し、翌15日、朝廷がそれを勅許した幕末期の一大政治事件を意味します。「返還した」ということは、もともと日本の政権は朝廷(天皇)にあったということを意味し、鎌倉幕府以来、武士たちが実質的に日本を治めてきましたが、徳川慶喜はその政権を目に見える形ではっきりと朝廷に返還しました。徳川慶喜は、薩摩・長州両藩を中心とした反幕府の連合軍が討幕の兵を上げる前に政権を返還することで討幕派の矛先をかわし、引き続き自らの影響力を保持することを狙ったとされています。