
山口組の歴代組長!最強ランキングTOP6を公開【2025最新版】
日本には、いくつかの反社会勢力や暴力団、いわゆるヤクザと呼ばれる組織が存在します。その中でも最強だと言われているのが山口組です。ここでは、そんな山口組の歴代最強組長をランキングで紹介しています。
高山清司の「子分中の子分」とされ、2013年、恐喝事件で懲役6年が確定した高山から弘道会の会長を譲られた。同年、山口組の直参に昇格。2014年6月24日、高山は大阪拘置所に収監された(同年12月に府中刑務所に移送)。
山口組の歴代組長ランキング3位 石田章六さん
警察から広域暴力団に指定されていた柳川組は、1958年に起きた大阪での縄張り争いで敵対勢力100人に対してたったの8人で日本刀を持って殴り込みをかけた伝説を残しています。そのため、「殺しの軍団」と呼ばれていました。「柳川とは喧嘩をするな」とトップから忠告されるほど他の組織に恐れられたそうで、山口組に最も貢献したと言われています。
石田章六さんは超武闘派で知られた柳川組を経て、章友会(前身は石田組)の会長と六代目山口組顧問を務めていました。二次団体だった柳川組は、最盛期には2800人の構成員を抱える大組織で、「柳川組四天王」と呼ばれた一人でした。
警察から広域暴力団に指定されていた柳川組は、1958年に起きた大阪での縄張り争いで敵対勢力100人に対してたったの8人で日本刀を持って殴り込みをかけた伝説を残しています。そのため、「殺しの軍団」と呼ばれていました。「柳川とは喧嘩をするな」とトップから忠告されるほど他の組織に恐れられたそうで、山口組に最も貢献したと言われています。
超武闘派として知られた石田章六さんは、普段はきさくで穏和な人物だったそうです。一般人には腰が低くて丁寧な対応をしていました。山口組と袂を分かった神戸山口組の初代組長・井上邦雄さんも「おじさん」と呼んで慕っていたというエピソードもあります。
1984年における四代目山口組の発足に伴い舎弟に直り、1989年、五代目山口組発足に伴い、舎弟頭補佐に就任し、執行部入りをしました。そして2005年には、六代目山口組の発足に伴い同組顧問に就任します。しかし、2016年10月に大阪市内の病院で83歳で死去しました。
1984年における四代目山口組の発足に伴い舎弟に直り、1989年、五代目山口組発足に伴い舎弟頭補佐に就任して執行部入りした。2005年には六代目山口組の発足に伴い同組顧問に就任。2016年10月逝去。
山口組の歴代組長ランキング2位 山本健一さん
生年月日:1925年3月5日
死没日: 1982年2月4日
肩書:元三代目山口組若頭 山健組組長
三代目山口組組長・田岡一雄さんのボディガード兼秘書を務めて山口組の抗争の矢面に立ち続けました。山健組が武闘派として名を知らしめたのが、1978年に大阪の松田組との抗争「大阪戦争」です。京都のクラブ「ベラミ」で、田岡一雄さんが松田組から襲撃を受けたことに激怒した山本健一さんは、大量殺戮を厭わない全面戦争を仕掛けたことでも有名です。
少年時代は、穏やかな性格で頭のよい少年だったそうです。1942年に大阪電気学校を卒業し、横須賀海軍工廠に勤めました。1945年に鳥取の部隊に入隊。終戦後は神戸に戻りましたが家族の消息も掴めず、自暴自棄となっていきました。
1951年頃、当時田岡三代目山口組で若頭を務めていた安原政雄と出会い、安原の若衆となって山口組の傘下に入りました。1961年に山健組を結成し、1963年、執行部体制の下で若頭補佐役に就きます。一時若頭補佐から外れ、1968年の新体制で再び若頭補佐に就任しました。
山口組内において、武闘派として夜桜銀次事件や広島抗争など数々の抗争で功績を挙げ、山健組の地位を不動のものとしました。山口組四代目を継ぐと目されましたが、田岡三代目の死から間もない1982年2月に、持病の肝臓疾患のため亡くなりました。
山口組内において、主に武闘派として夜桜銀次事件や広島抗争など数々の抗争で功績を挙げることにより、山健組の地位を不動のものとした。1978年には保釈中の身でありながら「大阪戦争」の陣頭指揮を執り、抗争終結の記者会見を開くなどしたため
本名:朴泰俊(パク テチュン)
生年月日:1932年10月30日
死没日:2016年10月23日
肩書:元六代目山口組顧問、章友会会長、旧柳川組舎弟